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『サイゴンから来た妻と娘』の続編。

今度は娘のユンの話が中心です。
ベトナムに生まれ、13歳で日本に連れてこられて、日本ではフレンチ・スクールに通い、著者がバンコクに転勤になったことをきっかけに今度はバンコクへ移住し、、、
10代の頃にこういった人生を送ってしまった子どもたちは、自分の文化的基盤がどこにあるのか、どこに置いてよいのか分からなくなってしまうのではないか。
著者が、どうすることが娘の人生にとって最もよいことなのか悩みながら、一歩づつ一歩づつ父親として進んでいく有り様が丁寧に綴られてます。
子どもにとって、ベストを選択してあげることは無理であっても、どの道がベターなのか、どの道がマッチ・ベターなのかを考えるのが親の務め。

それに加えて、日本とベトナム、タイとの子育て観の違いについても言及されていて、興味深いです。

この本が書かれたのは80年代ですが、今読んでも変わりはありません。教育というのはなかなか変わらない、変え難いものなんだなぁと、しみじみ。


娘ユンについての考察で一つの焦点となっていたのが、「思考できるだけの言語能力を身に付ける必要がある」ということ。
13歳の思考能力、言語能力ではまだ未発達かつ不十分なので、その時点で言語環境を変えてしまうことには大きなリスクがある。
自分について、心の内面について、周囲の人間について、社会について、世界について、思いを巡らせて思考するには、それだけの「言葉」が必要となる。

言葉がなければ思考もできない。

これって怖いことですねぇ。言葉を持たない者は思考ができない。自分の中に言葉があるからこそ、思考としてまとめることができる。つなぐことができる。次の思考に進むことができる。言葉がなければ進めないんですよ。深めることが、できないんですよ。


一つの文化に根を張ることが出来ている自分の人生に感謝します。



近藤さんの文章はとてもきれいで読みやすいのです。
この、整理されている感が、とても好み。

この後にまだ続編があるので、次に進みます。

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延々と感想文を書いてきて、そういえば抜かしてた大前提があった!と思い至る。

この作者、ガチフェミです。

私は思春期に、左寄りかつフェミという人種に囲まれていたので、読んでいて「あー、、、いるわ、いるわ、こーゆー人!」と思い出しました。



依存について


嗜癖者のほとんどは依存者か対抗依存者(カウンター・ディペンデント)です。



対抗依存的な人びとは他者に依存していると感じるために、かえって自分は他人の助けなど必要ないと確信し、「誰の助けもいらない」と言い、そのように行動します。


私たちは幼い頃から、依存的になること以外に他人と親しくなることはできないと教え込まれて育ってきた(らしい)。

そして、
求愛とは相互依存であり、
「この相手なしでは生きていけない」という域に達したものが、「完璧な結婚」である。


我々はー!
個々に自立しなければならぬー!
(男に寄りかかって生きるなど、言語道断ー!)


いいじゃん依存したって・・・


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混乱


「混乱」は嗜癖システムの特徴である。



混乱した思考パターンを打ち破るためのもっともよい方法は、立ち止まって待ってみることです。



大事なことは創り出すことではなく、発見すること



理解しようとする試みはいっさい成功しません。論理的、合理的な左脳の思考など役に立ちません。物事をまっすぐにしようという試みも無駄です。それではコントロールの幻想を培養するだけです。



静かに座し、左脳の思考プロセスを封じ込めることで、理解への道が開けるようになるのです。




待つことは苦手です。
でも大人になってだいぶできるようになった。
我慢できるようになったしー、
忍耐も覚えたしー、
好きなものしか目に入らないってことも、だいぶ少なくなった(はず)。


大事なことは、創り出すことではなく、発見すること。

新しい洋服を買う前に、クローゼットを整理して、忘れてた服を掘り起こそう。

って話ではなくて。



待つこと。

大事ですね。

執着心を抑えること。

うん。大事です。


粘着質な執着心が強すぎるから、待つことができないんだと思う。



昨日ふと思った「赤い靴」の話。
本棚を探して読み返してみたら、なんだかとても身につまされる。
このお話が説いている教訓が、耳に痛い。

童話の解説なんかは読んだことがないんだけど。
木こりの男が、少女の足首を、赤い靴ごと切り離すのって、とてもエロティックだわ。
斧で。
足首を。
赤い靴。

靴ってだけでもキテるのに、色は赤。



大きく構えて待つことができる大人になりたいわー
タモリさんも言ってた。
「これでいいのだ」の精神よ。


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嗜癖性の特徴の一つ、

自己中心性について。


自己中心的な人は、「自我境界」が曖昧である。


自己中心的な人びとは、自己の始まりと終わり、他者の始まりと終わりがどこかまったくわからなくなります。自己中心的な人びとは、自己が独立した存在だということに気づかないために、他者を尊敬することができません。


「明確な境界が引かれていないため」、「自己の拡散」と「世界の暴走」が起きる。

全てが「自己」だから、他者の立場になって考えることはできないし、他者の視点でものを見ることもできない。



この「自我境界」についてはよく耳にするし、自分の皮膚感覚でも体感することができる。

時々、気を抜いてフッとしていると、どこまでが自分なのか分からなくなるの。
自分の中身が、浸透圧みたいにして皮膚からジンワリ染み出して、外の世界と溶け合っていくような感覚になることがある。
「あたしが漏れてる!」って。

このままどんどん溶け出していったら、最後に残るものは何だろうなぁ?
最後に残るものが、「本当の自分」かしら?
それなら、その「本当の自分」以外のものは、元から要らないんじゃないの?

とか言って、最後に残ったのが鼻毛だったりしたら、嫌だなぁ・・・
「本当の私は、鼻毛でした!」
いや鼻毛は大事だけれども。


自分がどんどん溶け出していって、外の世界に飲み込まれていく。

という感覚は、反対から捉えてみれば

自分がどんどん膨張していって、外の世界を侵食していってる。

ということでも、あるわけだ。

そうすると、「全てが自分」になって、「自分とは別の独立した存在である他者」の存在は認められなくなる。


昨今、若者が起こしている事件には、この「自我境界の曖昧さ」を感じるのよ。
自分という存在があり、母親という存在があり、父親があり、姉があり、弟があり、同級生があり、、、
それぞれは皮膚で隔たれた別個の存在である。
ということが皮膚感覚で分かっているかどうか。

どこまでもが「自分」になっているから、他者の存在を尊重することができなくなってしまったのでは。
「できない」っていうのは、努力が足りないという意味ではなく、不可能という意味で。

私は、ごく普通の当たり前の感覚として、存在の独立性を感じることができるけど、その感覚は常に自然にあるものではないしね。
既述のように、気を抜くと自分はどんどん溶け出していってしまうもの。


自分を外界に溶け出させていいのは、ごく限られた私的空間だけ。
というか、ある一定の限られた私的空間では、自分を溶け出させることが求められていたりもする。


こわいのは「自己の境界が分からなくなる」ことではなく、「自己の境界が分からない」こと。
これが国家レベル、世界レベルまで広がると、現代の米国のようになるわけです。


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共依存

=「他者あるいは他者の抱える問題への嗜癖、あるいはその問題との関係性への嗜癖」

つまり、相手の世話を焼くことで、相手が自分に依存するように仕向けて、依存してくる相手に依存する、ということ(?)


共依存者は、「自分を価値の低い者と感じ、自分が他者にとってなくてはならない者であろうと努力」するものである。
結果として共依存者はワーカホリックとなり、殉教者のように仕え、自ら犠牲になろうとする。

なぜか。

そこまで努力して仕えることで、共依存者は何を得るのか?

世話を焼いた相手が、共依存者に依存するようになること、です。

共依存者は騙されやすい。
「嫌われたくない」、「仲間でいたい」という願望があまりにも強すぎるので、真実か否かを判断する力が鈍り、嘘をつかれていること、裏切られていることを分かろうとしない。

結果として、共依存者は他人を尊敬することができない。
なぜなら、「自分をありのままに見つめる時にだけ、自分を受け入れ、尊び、責任を持つことができる」から。そして「自分が何者であるかを自覚してこそ、別のものを受け入れることができる」。
つまり、ありのままの自分を見つめることができていない時は、他人を受け入れることさえ、できていない。


そして問題は、共依存者であることが、現代社会のシステムから強制されている、ということ。
現代社会のシステムにおいては、他者との関係性において共依存であることが求められている。

共依存者の犠牲的精神は「美徳」とされ、共依存者の不誠実さ(不正直さ)は「善良」、「理解力」とされる。


ちなみに、現代の米国では人口の9割以上が共依存らしい。
(ま、これは、何をどう定義するかによるのだろうけど。)



嗜癖的な関係性とは、"真実の愛"と呼ばれるものである。

「真実の愛とは、相手なしでは機能できない、あるいは生きてさえいけない二人の関係性」のこと。

「あなたなしには生きていけない」という考えが、すでに嗜癖的なんだって。
子どもの頃から、「大人になったら「君なしでは生きていけない!」、「私も!」と言い合って、結婚してハッピーエンド」というストーリーを聞かされ続けていると、すっかりシステムに順応させられてしまうんだと。

「あなたしか見えない!」っていう乙女心は、嗜癖という「症例」なのさ。

乙女は症例!

なんてロマンティック・・・



嗜癖的な人間関係とは、「安全な人間関係」、「静的な人間関係」、「非プロセス的な人間関係」である。
しかし、そもそも人間関係とは不安定で、動的であり、結果ではなくプロセスである。

「安定した人間関係」なんてないと、私も思うわ。
特に、恋人同士などの密な人間関係においては。

それぞれのバロメーターは、常に変動してるでしょ。「やる気」とか「意欲」とか「関心」とか。それを総じて「好きという気持ち」と言うのかもしれない。

自分が100で相手が30の時もあり、自分がマイナスなのに相手は120って時もあり。自分のバロメーターが10くらいしかないのに、相手の120に引きずられてテンションが上がることもあり。

「倦怠期」などと呼ばれる、落ち着いた時期というのも、それぞれのバロメーターがたまたま70~80前後をウロウロしているというだけで、そんなバランスは一瞬にして崩れるよ。(70~80前後って、「相手のことをそこそこ好きだし、別れるほどの理由もないし、適当に流しとけ」っていう数字だと思う。)

男の人はロマンチストだから、「今が永遠に続く」とか信じきっちゃってる(もしくは信じたいと願っている)ことが多いけどさ。
関係性はダイナミックに変化するものだから、今日は「すごく好き」でも、明日には「なんかいまいち」になってることは往々にしてあるもので。それでも「義理」とか「情け」とか「惰性」とかがあるから、そんなことは言わずにいるわけだ。
その変化が醍醐味でもある、と思うんだな。

永遠なんて信じてないし。
って、そんなことは恋人(男性)には口が裂けても言わないけど。

でもさ、永遠なんて信じていないからこそ、今、相手に優しくなれるんじゃないの?

いつまでも永遠に優しく世話をしてあげなきゃいけないと思ったら、やる気なくすよ。
リミットがあると分かってるから優しくできるんだと思うけどなぁ。

言葉にすると、とても薄情に聞こえる。


私は、今、ここにあるものを、そのまま丸ごと肯定しよう、受け入れようと思ってて。
でも「今」は絶えず変化しているから、今の「今」を受け入れている事実と、その次の「今」を受け入れるかどうかの判断は、別ものですよ、と。


いつまでも
あると思うな
愛とカネ

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