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嗜癖性の特徴の一つ、

自己中心性について。


自己中心的な人は、「自我境界」が曖昧である。


自己中心的な人びとは、自己の始まりと終わり、他者の始まりと終わりがどこかまったくわからなくなります。自己中心的な人びとは、自己が独立した存在だということに気づかないために、他者を尊敬することができません。


「明確な境界が引かれていないため」、「自己の拡散」と「世界の暴走」が起きる。

全てが「自己」だから、他者の立場になって考えることはできないし、他者の視点でものを見ることもできない。



この「自我境界」についてはよく耳にするし、自分の皮膚感覚でも体感することができる。

時々、気を抜いてフッとしていると、どこまでが自分なのか分からなくなるの。
自分の中身が、浸透圧みたいにして皮膚からジンワリ染み出して、外の世界と溶け合っていくような感覚になることがある。
「あたしが漏れてる!」って。

このままどんどん溶け出していったら、最後に残るものは何だろうなぁ?
最後に残るものが、「本当の自分」かしら?
それなら、その「本当の自分」以外のものは、元から要らないんじゃないの?

とか言って、最後に残ったのが鼻毛だったりしたら、嫌だなぁ・・・
「本当の私は、鼻毛でした!」
いや鼻毛は大事だけれども。


自分がどんどん溶け出していって、外の世界に飲み込まれていく。

という感覚は、反対から捉えてみれば

自分がどんどん膨張していって、外の世界を侵食していってる。

ということでも、あるわけだ。

そうすると、「全てが自分」になって、「自分とは別の独立した存在である他者」の存在は認められなくなる。


昨今、若者が起こしている事件には、この「自我境界の曖昧さ」を感じるのよ。
自分という存在があり、母親という存在があり、父親があり、姉があり、弟があり、同級生があり、、、
それぞれは皮膚で隔たれた別個の存在である。
ということが皮膚感覚で分かっているかどうか。

どこまでもが「自分」になっているから、他者の存在を尊重することができなくなってしまったのでは。
「できない」っていうのは、努力が足りないという意味ではなく、不可能という意味で。

私は、ごく普通の当たり前の感覚として、存在の独立性を感じることができるけど、その感覚は常に自然にあるものではないしね。
既述のように、気を抜くと自分はどんどん溶け出していってしまうもの。


自分を外界に溶け出させていいのは、ごく限られた私的空間だけ。
というか、ある一定の限られた私的空間では、自分を溶け出させることが求められていたりもする。


こわいのは「自己の境界が分からなくなる」ことではなく、「自己の境界が分からない」こと。
これが国家レベル、世界レベルまで広がると、現代の米国のようになるわけです。


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