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警察小説ですね。

そこそこなエンターテイメント性もあるし、キャラクターがかわいらしいので、ささっと読み下すには持ってこいな小説です。

主人公の樋口さんが魅力的。
自信のないオジサン。

樋口警部補の娘・照美ちゃんの台詞に爆笑。なんだその喋り方!いつの時代だよっ!昭和初期か!?


あとは、、、

「世代で人間を語る」ということについて、かなりの分量で言及されてます。
団塊の世代と、その後の世代は、自らのことを世代で区切って分析したがる。その傾向は非常によく分かるな。
団塊世代って、自分たちのことを誇っていて、自嘲していて、どちらにしても語らずにはいられない。
小説の中では、樋口警部補は団塊の後の世代(55年生まれの設定)なので、団塊世代に対する恨みつらみ、鬱陶しさ、非難の言葉がしつこいほど書かれている。

ふぅん・・・。

と思って、作者のプロフィールを見たら、「1955年生まれ」だって。
やーっぱり。

語るべき世代観があるだけ羨ましいですな。


小説としてはマァマァです。
犯人が小説の中に初登場してきた時点で、「あ、こいつ犯人だ。」と分かります。

でもまぁ、「いかにもオジサンが書いた小説!」というイヤラシサを感じたいのなら、読んでみてもよいのでは。
そんな人は少ないだろうけど。

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青年Mといえば、世の中に「オタク」という呼び名を知らしめたことでも有名。


私はオタクを例外的な若者たちとも、逸脱した少年少女とも思えなかった。むしろ反対に、まわりの環境の特定の一部に過剰に同化し、過激に適応した結果なのではないか。そう考えたほうが、よく理解できると考えていた。
これにくらべれば、会社帰りにトイレで着替え、ウォーターフロントのディスコで踊るなどというのは中途半端な流行追随にすぎず、ブランド商品を買いあさるのも不安と見栄の金銭トレード、ネアカ同士のおしゃべるなんぞは打ち込むべきものを見つけられない臆病者たちの暇つぶし、というところだった。オタクから見れば、それらはどれも群れることでしか、近場の他者の視線に支えられることでしか、立っていられない連中のやることだった。


しかし。


彼が懸命に、積極的に、能動的に流行っているものを買い集めれば集めるほど、世の中と世界を追いかけるだけの、従属と受動の存在になることだったということを。一億総中流と新中間大衆の能動性とは、その究極において、最高の受け身に転化する。それが消費社会の残酷なパラドックスなのだということ。


つまり。

「自分たちはパンピとは違う」と選民意識を持ってオタク活動に励めば励むほど、実は時代に流されている、消費社会に飲み込まれている、踊らされている、という矛盾。

でもなぁ。そもそも「オタク」ってパンピをバカにしたり選民意識をもったりするものなのかな。「あいつらには分かるまい」などと言って。
それってつまり、コンプレックスの裏返しでしょ。流行に流されてみんなで群れて楽しくやってる(ように見える)「パンピ」を横目に見つつ、そうはなれない自分、その中に入りたくても入れてほしいと言えないプライド。そういったものがねじれて噴出した姿が、「オタクがパンピを小馬鹿にする姿」である。

私の考えるオタク像って、そんな社会性すらない人たち、なんですよ。
周囲の人間(=パンピ)を見て、観察して、自分のあり様と比較して、劣等感を持ち、その裏返しとして優越感を持つ。
これは立派な「社会性」です。

オタクという人種に、そういった意味での社会性があるのか。私はないと思うんですねぇ。
だから、オタクの人は意外と人当たりがよかったりする。私が「こいつは真性だ…」と思う人であればあるほど、屈託がなくて明るい人だったりする。
なぜかと言えば、自分たちがやっていることに後ろめたさがないから。
好きだからやってる。好きだから突き詰めたい。それのどこが悪いの?え?劣等感?それよく分かんない。
そういう方々は強いです。

著書の中にもオタクの言った言葉として社会性云々と言及があって、社会性とは"周りに人間に合わせて、多数派の流行にみんなで乗って、適当な生活を送ること"といった意味で使われている。
でもむしろ、その意味での「社会性のある人」を横目で見て劣等感を感じている時点で、それは「社会性のある人である」ということにならないか?
気にしちゃってる時点で、あなたはnotオタク。残念ながら。

天才に「あなたは天才ですか?」と聞くと、「いえ、私は普通の人です。」と答えるように。(ほんとか?)
精神を病んでいる人に「あなたは正常ですか?」と聞くと、「はい、私は正常です。」と答えるように。(ほんと?)
明らかな酔っ払いに「酔ってる?」と聞くと、「じぇんじぇん酔ってないよぉぉぉ~~」と答えるように。(これほんと。)


なぜここまで「オタク」を崇高な存在に祭り上げているかと言えば、当の私が「オタクになりたくてもなれないパンピ」だからです。


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ノンフィクション作家による、宮崎勤(M)と少年Aを通して考察した「現代」。

これはもう、著者の吉岡忍さんが、全て。大作だわ、ほんと。
考え込んだことはいくつもあったので、ちょっとづつ整理する。


・教育への批判的視線

青年Mにしても、少年Aにしても、著者は彼らが身を置いてきた学校現場、教育者、教育の在り方について、非難を隠さない。

例えば、青年Mの義務教育期間中の「行動および性格の記録」では、青年Mが大勢の友達と集団で遊ばないということについて否定的に書かれている。何度も、何度も。つまりこれは、学校教育の中に「集団への信仰」が確固として存在しているということ。
個人が個人であろうとすることは「悪いこと」である。
個人とは、集団からはみ出した「落ちこぼれ」である。
長い長い学校教育の期間中、ずっとそのような自己イメージを強制されてきた子どもは、どうなる?
孤独でいることが許されない世界で、どうやって生き延びていくか。
もはやそこには、「悪い子」の自己を破壊していく道しか、残されていないのでは。
積る攻撃性は、内に向かうしかないのでは。

少年Aが、小学校6年生の図工の時間で作った粘土細工。粘土のかたまりにカッターナイフの刃を突き刺し、血管が浮き出た肉のかたまりのように見える作品。
この作品を見た教師は、少年Aのことを「気味が悪い」として、要注意な生徒であるとして、家庭訪問まで行っている。
この教師がとった行動と、それを裏付けた判断とを、単純に責めることはできないだろう。だって、自分だってきっと「気味が悪い」と思うだろうから。
一人の人間としては。
でも教師は「一人の人間」であるとともに、教職に就く者なのだよ。
「気味が悪い」と考えて、家庭訪問(=両親に注意)する以前に、もっと考えられることはなかっただろうか。もっと想像力を働かせることはできなかったのか。


90年代以降、個性を重んじる風潮が教育界に起ったけれど、今また逆流している。集団への回帰。
「個性」だとか「自分らしさ」だとか、そんなものを突如として子どもたちに求めるのは、無理だね。酷だよ。
だって、それを求めている張本人の「大人」が、没個性なのだから。
「大人」だって、子どもたちに「個性」やら「自分らしさ」やらを出せ出せと言っておきながら、実際のところはその「個性」が何なのか分かってないでしょ。誰一人として、何一つ、分かってない。分かっていないから、言葉に裏付けがない。故に、自信がない。「大人」が戸惑っている様子に、子どもは敏感です。

だからといって、今さら集団信仰を持ち出さなくても、ねぇ。


教育論議って、システマティックな部分から攻めるべきなのか、道徳から攻めるべきなのか、難しいところよね。


つづく。

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