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毎日楽しい楽しいと思っていて、でもなんとなくパッとしなくて
これは体調がわるいのかしらー・・と思ったりするけれど
全てにおいて、感覚が希薄だ。
「自分」ってものが仮に在るとして、それがどこかそこらへんに彷徨っているんだけど、その範囲を自覚できない。
例えば誰かと待ち合わせをして、待ち合わせ場所で会った時に、相手が私のことを見て、私だと認識して気付いてくれることが、私にとってはものすごく新鮮です。この人の目には何が映っていて、何が像として認識されたんだろう?って。それはおそらく、「他人の脳みその一部分を自分という存在が占めていること」に馴染めなくて、そんなことはありえないことだろうという前提に立っているから。
精神病ぶりたい訳ではないのよ。という前置きを置いておいて。
「自分」の境界がどこまであるのか、どうしても把握できない。
守るべき「自分」がどこにあるのか、どこまでを守らなくてはいけないのかが分からないから、全て開けっぴろげにドーンと大放出してしまったり、
そうすると今度は「これはマズいんじゃないか」と不安になって一切を拒否してみたり、
どちらにしても、自分と他人との境界を認識しづらい。
でもそもそも認識する必要はあるのかね。
10代になった頃に「壁がある」とか何とか言われたことをまだ根に持っている。
壁、ねぇ。
壁については、よくこんな図を思い描くんだわ。(こんなもんをわざわざエクセルで作っている・・)
自己の在り方として、一般的に「健全」と言われるのは、こういう形なのではないか。常にこんな状態でいる人はいないと思うけれど。

灰色の円の外側は、外界。
外界と触れ合って、拒否反応を起こしつつも少しだけ溶け合わさって、折り合いをつけていくことができる領域が、「公開できるプライベート領域」。ここに踏み込まれることにはある程度の抵抗があるため、その抵抗のことを「人見知り」と呼んだりする。「公開できるプライベート領域」(この命名が正しいか不明だけど)の範囲が大きい人ほど、一般的に言うところの「人見知りする人」なのでは。つまり、自分自身でコントロールしたい範囲(=他人に動かされたくない範囲)が大きい人。自我の範囲が大きい人。自分だけの聖域が大きい人。自分の聖域を他人に汚されたくない人。
そしてその中心には、自分だけが認識して守っている「コア領域」がある。
一方で、私が自分自身の在り方をイメージする時に思い描くのは、こんな構図。

「公開できるプライベート領域」がない。外界とコア領域の間が、ないの。
大事にしなければいけない自分、ってものが分からないから、全てを外界に投げ打っている。好きにしていいよ。勝手に持ってっていいよ。
だからと言って全てを曝け出しているオープンマインドであるはずがなく、むしろその逆。
人並みの「コア領域」はあるため、そこは絶対に譲らない。
「コア領域」の周囲を覆っている部分(図の灰色の部分)は薄皮一枚で、薄皮一枚だけどそれは鋼でできた薄皮なの。
こういう図を思い描いているから、私は「私は人見知りしない」って思っているのかも?
まぁ、いつもいつもこんなこと考えてるわけじゃないけど、日々生きていれば人付き合いは避けられないのでね。
最後まで心を開いてもらえなかった。
結局、本心はどこにあったの?
親しくなればなるほど距離を感じさせるよね。
今までの人生で腹割って人と付き合ったこと、ないでしょ。
よく言われる台詞達です・・が・・・
問題なのは、そういうことを言われても、私自身はどうすればいいのか分からないことなんだなぁ。意識して行動しているわけじゃないから。ミステリアスに見せようと努めているわけでもなし。謎と言われても、私には謎はないと認識しているし。秘密主義と言われても秘密なんぞないし。「敢えて言う必要がないと思ったから言わないだけ。」と言うと、それも非難されたりして、そんなん言われてもさぁ。
最近、この手の人付き合いの諸々が重なっていて、普段は使わない能力が疲弊しているよ。
誰かのことを頼ったり、誰かに弱みを見せると、その相手は喜ぶよね・・・。
嫌な言い方をすれば、
誰かのことを頼っているフリをしたり、誰かに対して「自分の弱み」を捏造して見せつけると、その相手は喜ぶよね。
あからさまに喜ばれてしまうので、私は不安になる。そんなに敷居は高かったのか、と。
泣いたり笑ったりと、ドラマティックな感情表現を含んだ人付き合いの方が「本物である」とは限らない。そんなものはいくらでも偽装できる。むしろ偽装することに意味がある、ということが多い。
それよりも、日々の出来事を淡々としゃべったり、共通の趣味について笑い合ったりする方が、私にとっては「本物」を感じるんだけどなぁ。
いやー
何が言いたいのか分からないなー
自分の身に起こった具体的な出来事を念頭に置いて考え事をしているから、一般論ではないと思う。
自分には際限が見えない無数の選択肢が在る世界で、
目の届く範囲にある10の選択肢から1を選ぶ、という行動に置き換えること。
そしてその選択が唯一無二のものであると信じること。
それが生きる術ってものなんじゃないかと、思うのですよ。
これは体調がわるいのかしらー・・と思ったりするけれど
全てにおいて、感覚が希薄だ。
「自分」ってものが仮に在るとして、それがどこかそこらへんに彷徨っているんだけど、その範囲を自覚できない。
例えば誰かと待ち合わせをして、待ち合わせ場所で会った時に、相手が私のことを見て、私だと認識して気付いてくれることが、私にとってはものすごく新鮮です。この人の目には何が映っていて、何が像として認識されたんだろう?って。それはおそらく、「他人の脳みその一部分を自分という存在が占めていること」に馴染めなくて、そんなことはありえないことだろうという前提に立っているから。
精神病ぶりたい訳ではないのよ。という前置きを置いておいて。
「自分」の境界がどこまであるのか、どうしても把握できない。
守るべき「自分」がどこにあるのか、どこまでを守らなくてはいけないのかが分からないから、全て開けっぴろげにドーンと大放出してしまったり、
そうすると今度は「これはマズいんじゃないか」と不安になって一切を拒否してみたり、
どちらにしても、自分と他人との境界を認識しづらい。
でもそもそも認識する必要はあるのかね。
10代になった頃に「壁がある」とか何とか言われたことをまだ根に持っている。
壁、ねぇ。
壁については、よくこんな図を思い描くんだわ。(こんなもんをわざわざエクセルで作っている・・)
自己の在り方として、一般的に「健全」と言われるのは、こういう形なのではないか。常にこんな状態でいる人はいないと思うけれど。
灰色の円の外側は、外界。
外界と触れ合って、拒否反応を起こしつつも少しだけ溶け合わさって、折り合いをつけていくことができる領域が、「公開できるプライベート領域」。ここに踏み込まれることにはある程度の抵抗があるため、その抵抗のことを「人見知り」と呼んだりする。「公開できるプライベート領域」(この命名が正しいか不明だけど)の範囲が大きい人ほど、一般的に言うところの「人見知りする人」なのでは。つまり、自分自身でコントロールしたい範囲(=他人に動かされたくない範囲)が大きい人。自我の範囲が大きい人。自分だけの聖域が大きい人。自分の聖域を他人に汚されたくない人。
そしてその中心には、自分だけが認識して守っている「コア領域」がある。
一方で、私が自分自身の在り方をイメージする時に思い描くのは、こんな構図。
「公開できるプライベート領域」がない。外界とコア領域の間が、ないの。
大事にしなければいけない自分、ってものが分からないから、全てを外界に投げ打っている。好きにしていいよ。勝手に持ってっていいよ。
だからと言って全てを曝け出しているオープンマインドであるはずがなく、むしろその逆。
人並みの「コア領域」はあるため、そこは絶対に譲らない。
「コア領域」の周囲を覆っている部分(図の灰色の部分)は薄皮一枚で、薄皮一枚だけどそれは鋼でできた薄皮なの。
こういう図を思い描いているから、私は「私は人見知りしない」って思っているのかも?
まぁ、いつもいつもこんなこと考えてるわけじゃないけど、日々生きていれば人付き合いは避けられないのでね。
最後まで心を開いてもらえなかった。
結局、本心はどこにあったの?
親しくなればなるほど距離を感じさせるよね。
今までの人生で腹割って人と付き合ったこと、ないでしょ。
よく言われる台詞達です・・が・・・
問題なのは、そういうことを言われても、私自身はどうすればいいのか分からないことなんだなぁ。意識して行動しているわけじゃないから。ミステリアスに見せようと努めているわけでもなし。謎と言われても、私には謎はないと認識しているし。秘密主義と言われても秘密なんぞないし。「敢えて言う必要がないと思ったから言わないだけ。」と言うと、それも非難されたりして、そんなん言われてもさぁ。
最近、この手の人付き合いの諸々が重なっていて、普段は使わない能力が疲弊しているよ。
誰かのことを頼ったり、誰かに弱みを見せると、その相手は喜ぶよね・・・。
嫌な言い方をすれば、
誰かのことを頼っているフリをしたり、誰かに対して「自分の弱み」を捏造して見せつけると、その相手は喜ぶよね。
あからさまに喜ばれてしまうので、私は不安になる。そんなに敷居は高かったのか、と。
泣いたり笑ったりと、ドラマティックな感情表現を含んだ人付き合いの方が「本物である」とは限らない。そんなものはいくらでも偽装できる。むしろ偽装することに意味がある、ということが多い。
それよりも、日々の出来事を淡々としゃべったり、共通の趣味について笑い合ったりする方が、私にとっては「本物」を感じるんだけどなぁ。
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