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ノンフィクション作家による、宮崎勤(M)と少年Aを通して考察した「現代」。
これはもう、著者の吉岡忍さんが、全て。大作だわ、ほんと。
考え込んだことはいくつもあったので、ちょっとづつ整理する。
・教育への批判的視線
青年Mにしても、少年Aにしても、著者は彼らが身を置いてきた学校現場、教育者、教育の在り方について、非難を隠さない。
例えば、青年Mの義務教育期間中の「行動および性格の記録」では、青年Mが大勢の友達と集団で遊ばないということについて否定的に書かれている。何度も、何度も。つまりこれは、学校教育の中に「集団への信仰」が確固として存在しているということ。
個人が個人であろうとすることは「悪いこと」である。
個人とは、集団からはみ出した「落ちこぼれ」である。
長い長い学校教育の期間中、ずっとそのような自己イメージを強制されてきた子どもは、どうなる?
孤独でいることが許されない世界で、どうやって生き延びていくか。
もはやそこには、「悪い子」の自己を破壊していく道しか、残されていないのでは。
積る攻撃性は、内に向かうしかないのでは。
少年Aが、小学校6年生の図工の時間で作った粘土細工。粘土のかたまりにカッターナイフの刃を突き刺し、血管が浮き出た肉のかたまりのように見える作品。
この作品を見た教師は、少年Aのことを「気味が悪い」として、要注意な生徒であるとして、家庭訪問まで行っている。
この教師がとった行動と、それを裏付けた判断とを、単純に責めることはできないだろう。だって、自分だってきっと「気味が悪い」と思うだろうから。
一人の人間としては。
でも教師は「一人の人間」であるとともに、教職に就く者なのだよ。
「気味が悪い」と考えて、家庭訪問(=両親に注意)する以前に、もっと考えられることはなかっただろうか。もっと想像力を働かせることはできなかったのか。
90年代以降、個性を重んじる風潮が教育界に起ったけれど、今また逆流している。集団への回帰。
「個性」だとか「自分らしさ」だとか、そんなものを突如として子どもたちに求めるのは、無理だね。酷だよ。
だって、それを求めている張本人の「大人」が、没個性なのだから。
「大人」だって、子どもたちに「個性」やら「自分らしさ」やらを出せ出せと言っておきながら、実際のところはその「個性」が何なのか分かってないでしょ。誰一人として、何一つ、分かってない。分かっていないから、言葉に裏付けがない。故に、自信がない。「大人」が戸惑っている様子に、子どもは敏感です。
だからといって、今さら集団信仰を持ち出さなくても、ねぇ。
教育論議って、システマティックな部分から攻めるべきなのか、道徳から攻めるべきなのか、難しいところよね。
つづく。
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